つぶやき by Tayu

つぶやき

ごきげんよう

広島湾を望みながら  2024/9/7

広島の暑さは関西とはまた違った空気感でした。空気ってこんなに重いのか・・・実感致しました。とは言いながら元気で帰って参りました。宿泊ホテルの最上階から海側を眺めながらの朝食は、夏を忍耐した身体には恰好のご褒美に思え、少し欲張って戴きましたよ🐽写真中央の薄らとした島は『安芸の小富士』と呼ばれています似島です。


似島は検疫所となった歴史があります。1894年に山陽鉄道が広島まで延びて宇品線が開通すると、大本営を東京から広島第五師団に移し、明治天皇の到着後、臨時帝国議会が開催された故、臨時首都となったので検疫所が有ると言われています。


1894年日清戦争が開始すると赤痢やコレラが大流行しました。後藤新平の計画の下、東洋一と言われる似島陸軍検疫所が日本で最初に設置されました。


1904年日露戦争が勃発すると日清戦争の5倍の検疫数となり、第二検疫所も増設され1日8000人と言う大規模検疫所となりました。翌年の1905年には俘虜収容所もでき、ロシア軍俘虜は8日間で17000人に上りました。


第一次世界大戦では1917年には、ドイツ軍俘虜収容所が大阪から似島に移されましたが、、閉鎖迄の3年間、ドイツ軍俘虜は、語学・数学・機械工学・建築工学・電気学・経済学・速記などの文化活動、新聞の発行、商業活動など、自国ドイツの進んだ技術を広島市民に紹介しました。収容者の中にいたバームクーヘンで有名なカール・ユーハイムやハムソーセージで有名なヘルマンが街に出て製造技術を教えたとも言われています。


満州事変や日中戦争が始まると宇品から多くの師団が出発し大きな師団が帰ってくると似島の児童たちは帰還兵を迎えました。


1941年.太平洋戦争に突入すると、島は影響を受けてました。立入禁止区域にし、陸軍船舶練習部第十教育隊と言う秘密部隊の訓練地になったり、高射砲陣地も造られています。1945年8月6日の原爆投下後は臨時野戦病院となり、暁部隊・少年特攻兵に加わり島民も献身的な救護活動に当たりました。人口1751人の島に1万人余りが運ばれて来ました。


戦後、収容所に手を加え、原爆孤児養育施設、「似島学園」を設置し1946年9月に開園にこぎ着けました。

以上=国際平和拠点 ひろしま=を参考。


美しい山や海、穏やかな自然の観光島になっていますが、『島の歴史』を辿り想いを馳せると『生』について深められ、ひいては本当の『調和と和合』の意味を考える機会になりますね。今日は特別に長い『つぶやき』にお付き合い下さりありがとうございます。   2024/9/9重陽の日 by  tayu